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各店のよもやま話

各店のよもやま話

◆江戸の孝行娘◆

 当店は江戸時代から続く古い菓子屋ですが、実は創業当時の記録があまりございません。日本橋小網町で創業したものの火事に見舞われ、その後も関東大震災や空襲で古い資料が失われてしまったからです。そうしたなかで、少なくとも元禄年間には店があったことが明白なのは、初代の娘、お秋に関する資料が数多くあるためです。
 お秋は幼い頃から俳句を学んでおり、「秋色」という俳号をいただいておりました。そして13歳のとき、上野の清水観音堂で詠んだ「井の端の桜あぶなし酒の酔」が公寛法親王の目にとまり、謁見の栄誉を受けます。このことでお秋は一躍、時の人となるのですが、さらに彼女の名を高めたのが、その親孝行ぶりです。
 安藤信友の屋敷に招かれた日の帰路、冷たい雨が降り始めると、お秋は下賜されていた籠を降りて父を乗せ、粗末な笠と紙合羽姿で歩いて帰ったのです。これがあっという間に江戸中のうわさとなり、国周や国芳がその情景を錦絵に描くことにまでなったのです。
 さて、一躍有名人となり、籠を賜わるほどの栄誉も受け、さらには孝行の鏡とまで言われることとなった少女は、どんな気持でいたのでしょうか。戸惑うことも多かったのではないかと、ちょっと不憫になることもあるのです。

秋色最中
秋色庵 大坂家
●港区三田3-1-9
(JR田町駅、地下鉄三田駅から徒歩5分)
●03(3451)7465
挿絵


◆蕎麦屋の大事件◆

 私がまだ高校生だった時分の話ですから、もう随分昔の話になります。
 昭和30年の冬のある日、帝国ホテルから1本の電話がかかりました。「お蕎麦の出前ができますか?」。
 当店は昔も今も出前をしておりません。お断りを申し上げたところ、のちほどお客様が来店されるということになりました。そして、まもなく黒塗りのハイヤーがずらりと店の前に並んだから、さあ店も町内も大騒ぎです。
 ハイヤーから降りてこられたのは、中国の思想家であり、政治家、革命家である郭沫若氏でした。氏は大正3年から旧制一高と岡山の六高で学び、九州帝国大の医学部を卒業。その後帰国されましたが蒋介石との対立から昭和3年に日本に亡命し、10年間を市川市で過ごされた知日派です。国交回復前のこの時期の来日も、日本学術会議の招きによるものだったのです。
 この日、郭沫若氏は父の願いに応じて「そば5枚 酒30杯 18年の懇望を満足させていただきました」といった意味の言葉を書いてくださって、店をあとにされました。力のみなぎる見事な草書です。
 のちに掛け軸に仕立てたこの字を見るたびに、皆があわてふためいていた、あの日のことが思い出されます。
 そして、国賓に書をお願いするとは、と父があとで叱られたことも、今は懐かしい思い出となっているのです。

蕎麦
蓮玉庵
●台東区上野2-8-7
(JR御徒町駅、地下鉄上野広小路駅から徒歩3分)
●03(3835)1594
挿絵
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