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◆「玉屋」は、いずこへ?◆ |
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「玉屋ぁ〜、鍵屋ぁ〜」の歓声で知られるように、鍵屋とともに玉屋も江戸を代表する 花火屋でした。といっても、玉屋が登場したのは、鍵屋が6代目になった文化7年(1810)。鍵屋の手代だった清吉が別家して、「玉屋」の看板をあげたのです。当時は商人の階級がきびしく、20年ほども働いて番頭になり、それからやっと分家や別家が認められた時代でしたから、手代で暖簾分けをしたということは、それだけ清吉の人柄や才能がずば抜けていたと想像されます。
玉屋の別家によって、川開きの大花火は、まさしく「玉屋ぁ、鍵屋ぁ」の大歓声に包ま れる競演の時代となりました。大川の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持つことになったのですが、人気は玉屋の一人勝ち。どうやら、色も形も玉屋の方が優れていたようです。浮世絵に描かれた花火船も玉屋のものばかりだったといいます。
ところが、それから32年後の天保14年(1843)5月17日の夜、玉屋は店から火事を出してしまいます。燃え上がった炎は店を全焼し、さらに周辺の町にも飛び火して半丁ほどをも類焼。失火は情状酌量される時代でしたが、この日が将軍家慶の日光参拝の前日であったため、玉屋は財産没収のうえ江戸追放、家名断絶という厳しい処分となってしまいました。まさしく、花火のように一代であっけなく消えてしまったのです。
玉屋がなくなった後、川開き花火は鍵屋がすべてを受け持つことになりました。でも、観客から上がる歓声は変わらず「玉屋ぁ、鍵屋ぁ」だったとか。
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