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老舗の知恵袋

江戸・東京散歩

<第2回 忠臣蔵を歩く>
案内人は江戸っ子「みよちゃん」どうぞよろしく! みよちゃん
今回は「忠臣蔵」でおなじみ、赤穂浪士たちが討入りの後に歩いた道をたどります。
討入りは元禄15年12月14日、新暦になおすと1703年1月30日の出来事です。
『大江戸広辞苑』の「討入りの本当の日付」も見てから、でかけてね。

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■散歩の出発点は、吉良邸

 赤穂浪士の討入りは、主君・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけ、その罪で切腹となったことに対する仇討ちです。前夜、吉良邸から東へ1キロほどの距離にある堀部安兵衛宅に集結した(他にも諸説あり)浪士たちは、夜明け前に吉良邸に討入り、その首を討ち取りました。
 現在の吉良邸跡は、なまこ塀で囲まれた小さな小さな公園。この場所に立っても敷地面積2557坪、建坪1234坪、50もの部屋数を持つ大邸宅だった、かつての吉良邸を想像することはできません。ほんとは、ここを含めた南側一帯が吉良さんのお屋敷だったんですよ。

写真 吉良邸跡。JR両国駅から徒歩5分ほどです。先に回向院の山門が見えてきますが、ここは吉良邸から歩き始めないとね。門前に由来を記した石碑が建っています。

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■鼠小僧次郎吉のお墓もある、回向院
吉良邸前の道を西に歩くと、すぐに回向院の裏門にでます。
回向院は、赤穂浪士が本懐をとげたあとの集合場所の予定だったのですが、髪をふりみだし、血にまみれた浪士たちを見て、かかわりになるのを恐れた僧が入山を拒否。それで、一行は主君の墓のある泉岳寺に向かうことにしたのです。
そもそも回向院は明暦の大火でなくなった10万人ともいわれる犠牲者を弔うために建てられたお寺。戯作者&浮世絵師の山東京伝など江戸の有名人のお墓があり、勧進相撲が行われたことでも知られています。
でも、なにより回向院を有名にしているのが、「鼠小僧次郎吉」のお墓。いつの頃からか、墓石のかけらを持っているとギャンブルに勝つというジンクスが言われるようになり、お墓の前に、削り取り専用の「お前立ち」の石がたっています。
ご利益を得たい人は、こちらの石を削ってくださいね。

写真 鼠小僧のお墓。鼠小僧については、「大江戸広辞苑」の「ぬすっとの大スター」も読んでみて。

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■やっと一服。赤穂義士休息の地
 回向院からは、隅田川沿いの道(といっても川は見えない、川に一番近い道)を、どんどん南下しましょう。
途中、右手に「松尾芭蕉記念館」があり、その先の、萬年橋の手前の道を入ったところには、芭蕉庵跡もあります。芭蕉さんは、ここから「奥の細道」の旅に出かけたんですって。芭蕉稲荷神社の鳥居の奥に石碑が建っていて、芭蕉さんが神様になっていたのにはビックリ。
 さて、さらに川に沿ってどんどん南下すると、永代橋。その手前の乳熊(ちくま)ビルの前に「赤穂義士休息の地」という石碑が建っています。赤穂浪士の1人、大高源吾の俳句の友であった「ちくま味噌」の初代が、ここで一行に甘酒粥をふるまったのだとか。大高源吾が看板を書き置いていったことで、ちくま味噌は、それからしばらく江戸の一大名所となって、江戸っ子観光客が押しかけたそうですよ。

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芭蕉庵跡。赤い鳥居が目印です。 ビルの前にひっそりとある記念碑。ここで飲んだ甘酒、きっと浪士たちの体も心も温めたんでしょうね。

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■浅野内匠頭邸跡
永代橋を渡った赤穂浪士は、霊岸島を抜けて鉄砲洲に入ります。鉄砲洲は、現在の中央区湊・明石町あたりで、一行は聖路加看護大学の西側の道を築地市場の方に歩いたようです。
その聖路加看護大の敷地の角に、「浅野内匠頭屋敷跡」の石碑が建っています。浅野家の屋敷は、当時、約9千坪あったといいますから、聖路加病院もお屋敷の跡。「松の廊下」事件後、3日目には引渡しが申し渡されていますが、家臣はすぐさま畳の数から障子の数まで詳細に記した帳簿をすばやく見事に作って引き継ぎ、立ち退いたそうです。
こんなことも、赤穂浪士人気、のちの忠臣蔵人気につながったんですね。飛ぶ鳥あとを濁さずの見本です。

写真 浅野内匠亜頭邸跡碑。この一帯は見どころが多く、聖路加看護大の正門前には「慶應義塾発祥の地碑」や、「蘭学事始の碑」があり、その裏手の公園には「シーボルト胸像」も。慶應義塾のほか、明治学院大、工学院大も、この界隈が発祥の地です。

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■四十六士(!)が眠る、泉岳寺
 赤穂浪士の隊列は、鉄砲洲から築地方向に歩き、西本願寺(現在の築地本願寺)で右折し、今の新橋駅の手前で東海道(現在の第一京浜)に入って泉岳寺へと到着します。
 泉岳寺は、徳川家康が外桜田に創建し、寛永の大火後に毛利、浅野、朽木、水野、水谷の五大名の尽力でこの地に移転、以後2万坪を超える寺域を有した名刹です。とはいっても、やはり観光客がめざすのは四十七士の墓。
墓石は討入り後に浪士がお預けになった大名家ごとにまとまっていて、細川家が17、毛利家と松平家がそれぞれ10、水野家が9の合計46基。ところが、墓石のような石塔がほかに二つあり、「寺坂吉衛門」と「刃道喜劒(にんどうきけん)」の文字が刻まれています。 寺坂吉衛門は、討入りの結果を後世に伝えるために討入り後に“消えた”とされる人物。本当の墓は別のところにあるので、ここにあるのは供養塔です。
また、刃道喜劒の石塔は、父親が敵討ちを許さず他家へ養子に出そうとしたため板ばさみになって自殺した萱野(かやの)三平の供養塔だろうといわれています。
というわけで、泉岳寺にある墓は、四十六士のもの。主君・浅野長矩の墓の脇で、1日中、参拝者がたむけたお線香の香りに包まれています。

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泉岳寺。都営浅草線、泉岳寺駅から徒歩3分。 浅野長矩の墓。 赤穂浪士の墓。討入り300年を記念して、墓所が整備され、 赤穂義士記念館もオープン。お参りしやすくなりました。

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【ついでに文学散歩も】
■芥川龍之介

 芥川龍之介は明治25年3月1日に、入船町一番地(現在の中央区明石町)で新原敬三、フク夫妻の長男として生まれました。それを記した「芥川龍之介生誕地」碑があるのが、なんと「浅野内匠頭邸跡」の石碑の横。ビックリします。
 ところが、ビックリは、これだけじゃありません。龍之介を生んだあと、フクは精神を病み、赤ん坊の龍之介はフクの実家である芥川家に引き取られます。そして、すくすくと育った場所が、本所区小泉町15番地(現在の墨田区両国3丁目22)。京葉道路をはさんで回向院の向かい側、歩道橋の近くに「芥川龍之介生育の地」の記念柱が立っています。
龍之介はこの場所から、江東尋常高等小学校(現在の両国小学校)の附属幼稚園、江東小学校に通ったのです。いま両国小学校に行くと、道から見える場所に『杜子春』の一節を刻んだ文学碑もあります。そして、両国小学校から西に1分歩けば、吉良邸!
というわけで、忠臣蔵散歩をしていると芥川龍之介に出会い、文学散歩をしていると忠臣蔵に出会う。このコースは、そんなオマケもある素敵な散歩道なんですよ。

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芥川龍之介誕生地碑。隣りに、浅野内匠頭邸跡の石碑が並んでいます。

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【老舗散歩も楽しんでね】

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