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老舗の知恵袋

江戸・東京散歩

<第3回 上野・谷中・根岸>
案内人は江戸っ子「みよちゃん」どうぞよろしく! みよちゃん
今回は上野恩賜公園から日暮里に向かって歩きます。美術館、博物館、図書館……とアート&カルチャーを楽しんだら、谷中霊園をノンビリ歩いて、さてそのあとはどこへ? 日暮里? 千駄木? それとも鶯谷方面? 江戸の下町情緒が香るエリアへと、散歩コースはまだまだ続きますよ。

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■見どころいっぱい、上野恩賜公園

 ご存知、上野公園です。園内には、クラシック音楽の殿堂「東京文化会館」や「上野動物園」などのアミューズメント施設があり、さらには「上野の森美術館」、「国立西洋美術館」、「国立科学博物館」、「東京都美術館」、「東京国立博物館」、「旧奏楽堂」と、カルチャー&アート施設がいっぱい。さらには上野東照宮などの歴史的な名所もありますし、いうまでもなくここは江戸時代から続く、お花見の名所でもあります。
 ところで、この上野公園が現在の緑豊かな公園になったのは、1人の外国人のおかげだってことをご存知ですか?
 幕末の彰義隊の戦いで焼け野原になった上野の森は、明治維新を迎えたあと、一大医療センターにしようという計画が進んでいました。ところが、大学東校(東大医学部の前身)教授であるオランダ人のボードイン博士に、その計画を話しながら上野の山を案内したところ、
「こんなに自然豊かな場所をつぶして、学校や病院を建てるなんて、とんでもない。大都市には公園が必要で、世界の都市で公園のないところでは、植樹の努力をしてでも公園をつくる努力をしているのに…!!」と、一括。
 かくして、医療センター計画は本郷にうつされ、上野は緑あふれる文化公園になったんだとか。この言葉、いまでも聞かせたい人がいっぱいいますね。ボードウィン先生に拍手!

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国立西洋美術館の前庭には、ロダンの「カレーの市民」像がたっています。「考える人」や「地獄の門」も前庭に。 旧因州池田屋敷表門。もとは因州(いまの鳥取県の一部)池田家の江戸屋敷表門で、現在の丸の内3丁目にありました。土・日・祝日は門が開けられ、東京国立博物館の出口として通り抜けられますよ。重要文化財。 旧東京音楽学校・奏楽堂。明治23年に創建された日本最古の木造の洋式音楽ホールで、国の重要文化財。年100回以上のコンサートが催されています。



■建築探偵さんにもおすすめ! 国際子ども図書館
 通称、上野図書館として親しまれてきた国立国会図書館支部上野図書館庁舎が、2002年にリニューアルオープン。子どもの本の紹介を中心にした、すばらしい図書館に生まれ変わりました。
 館内には世界中の絵本や児童書がぎーっしり。でも、見やすく並べてあるし、読書できるコーナーもゆったり造られていて快適です。ほかに「コドモノクニ」に掲載されていた絵画をパソコンで見ることができるコーナーやイベントホール、カフェテリアも併設。真面目に子どもの本について調べたい人には、充実した資料が閲覧できる部屋もあります。
 ところで、この図書館は建築が大好きな人にもおすすめなんです。明治39年に建てられ、昭和4年に増築された建物の原形を残しながら今回のリニューアルを手がけたのは、建築家の安藤忠雄氏。ガラス張りの斬新なエントランスをくぐり抜けると、内部は……??これは、行ってのお楽しみにしておきましょう。
 休館日は原則、毎週月曜と祝日。ホームページ
http://www.kodomo.go.jp/service/use.html
を参照して出かけてね。

写真 国際子ども図書館。明治・昭和・平成の3つの時代に造られた建物が一体となった斬新な建物。内部も「ホー!」とびっくりしちゃうモダン造りですよ。



■江戸の名刹、寛永寺
 寛永寺は、徳川家康の信頼あつい僧侶、天海僧正によって寛永2年(1625)に創建されたお寺です。
 正式名は「東叡山 寛永寺」。東叡山というカンムリがつけられているように、このお寺は京都の比叡山にならったもので、比叡山が京都の鬼門に建てられて京の都を守ったように、こちらも江戸の鬼門に建てられ、江戸と徳川家を守る役割を背負っていたんです。ちなみに、不忍池は、琵琶湖になぞらえて造られたものなんですよ。
 徳川家の菩提所でもあるので、敷地は広大。上野の山のほとんどが、寛永寺の寺域だったのですが、現在「寛永寺」と呼ばれているお寺は、ひっそりと鎮まった小さな境内。もともと寛永寺の子院だった大慈院があったところが、いまの寛永寺なんです。でも、実はここ、最後の将軍、徳川慶喜が朝廷に恭順の意をあらわすためにこもったという、歴史に名をのこすところなんですよ。
 境内に建つ根本中堂は、明治12年(1879)に川越にある喜多院の薬師堂を移築したもので、寛永15年の建造。屋根には徳川家の三つ葉葵の紋があるので、見落とさないでね。

写真 寛永寺の根本中堂。



■ドラマいろいろ、谷中霊園
 寛永寺の西北に広がっているのが谷中霊園。天王寺というお寺の境内の一部だったのですが、明治7年に東京都の公共墓地になりました。
 広さは約10万平方mもあって、迷子になりそうな広さです。有名人のお墓も多く、筆頭は15代将軍 徳川慶喜のお墓。ほかに、小説家の獅子文六や園地文子、広津和雄、画家の横山大観や鏑木清方、俳優の長谷川一夫、そして名横綱の柏戸のお墓もここに。天気のいい週末には、こうした有名人のお墓を探しながら歩くグループや観光客なども多くて、結構にぎやか。普通の墓地とは、ちょっと違う不思議な散歩道になっています。
 でも、歴史ファンなら、この霊園のもとの持ち主だった天王寺を忘れちゃいけません。
 天王寺はもともとは日蓮宗の寺で、名前も感応寺といいました。江戸時代には「富くじ」が興行されたことでも知られた人気のお寺だったんです。
 ところが、寺の教義が江戸幕府の宗教政策に合わず、反抗する態度まで見せたため、元禄年間に無理やり天台宗に改宗させられ、のちには寺名まで改めさせられたのです。そして、明治時代には、敷地の大部分が共同墓地のために没収……。なんとも数奇な運命をたどったお寺でしょ?
 でも、ドラマはこれだけではまだ終わりません。
この天王寺(感応寺)のシンボルは、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルともなった塔でしたが、昭和32年に焼失。それが、放火心中だったというからびっくりです。この五重塔、いまは礎石が残っているだけ。『五重塔』を読んでからでかけると、散歩がいよいよドラマティックになるかもしれませんよ。

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春は桜の名所でにぎわう谷中霊園。 天王寺五重塔跡の礎石。幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった塔は2代目で、寛政3年(1791)の建立。総檜造りで、高さ約34メートルもあり、当時は関東一の高さを誇っていたそうです。 天王寺。門をくぐると、元禄3年(1690)に造られた銅製の釈迦如来坐像が出迎えてくれます。



【ついでに文学散歩も】
■子規庵

 子規庵は、正岡子規が27歳から住み、35歳の生涯を閉じたところです。ただし、当時の家は昭和20年の空襲で焼失し、現在、私たちが見ることができるのは、昭和25年に再建された家です。
いまさら…かもしれませんが、まずは、子規のプロフィールを簡単にご紹介しましょうか。
正岡子規は、慶応3年(1867)、現在の松山市に生まれました。翌年が明治元年です。本名、常規(つねのり)、幼名は処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)と改めました。父は松山藩の藩士で、母は儒学者の長女。17歳で東京大学予備門(のちの第一高等中学校)へ進み、この時の同級生が夏目漱石。やがて二人は信頼を寄せ合う親友になっていきました。その後の活躍はご存知のとおり。『ホトトギス』を創刊し、文章革新運動をすすめ、高浜虚子などの門弟を輩出……。
 ところで、「子規」という号は、子規が22歳の時に初めて喀血し、その夜、ホトトギスの句を作ったことに始まります。
 ホトトギスは、時鳥とも不如帰とも、子規とも書き、口の中が赤く、そこから肺結核の代名詞ともなったのですが、子規を襲ったこの病いは、その後も直ることなく、やがて命を奪います。結核性の瘍椎骨カリエスも併発した厳しい病状については、『病牀六尺』に詳しく、食べては苦悶し、それでも食べ続けた怒涛のような食欲については『仰臥漫録』に記されています。文庫本にもなっているので、ご一読を。
 絶筆となった俳句は、ヘチマをうたった3句。そのうちの一つ
「をととひのへちまの水も取らざりき」。
夏になると、再建された子規庵の庭にも、立派なヘチマが実ります。

写真 子規庵は、車一台がやっと通れる程度の細道に面している。子規が「病牀六尺、これが我世界である」と書いた部屋も当時のままに再現されていて、小さな部屋の畳の上に座って庭を見ていると、いまでも子規のエネルギーが感じられて、圧倒されます。

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【老舗散歩も楽しんでね】

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