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老舗の知恵袋

大江戸広辞苑

 ◆男性限定の相撲見物
 もともと相撲は神事の芸能で、入場料収入を社寺の新改築費用にあてる「勧進相撲」でした。
 江戸で最初の勧進相撲が催されたのは、貞享元年(1684)の正月のこと。場所は、その2年前に本堂が火事で焼けた深川の富岡八幡宮で、8日間催されました。現在、富岡八幡宮境内に「横綱力士碑」や「超五十連勝力士碑」、「「巨人力士身長碑」など、さまざまな相撲関連の石碑があるのは、そんな歴史があるからです。
 さて、本格的に江戸で相撲が盛んになったのは田沼時代の終わり頃から。相撲は庶民の娯楽として人気を集め、花形力士は「1年を20日で暮らすいい男」と言われる大スターになりました。なかでも谷風梶之助、小野川喜三郎、そして容貌怪異にして怪力の雷電為右衛門らは、いずれも勝率9割以上を誇ったスター力士。ちなみに、当時の最高位は大関で、横綱は名誉称号でした。江戸相撲は年2場所で、両国の回向院を会場に桟敷席が設けられ、1〜4月の春場所と、10〜11月の晴天の10日間催されました。つまり、雨天順延。雨以外に寺の行事などでも延びましたから、たった10日の取り組みが2カ月近くかかることもありました。
 ところで、この青空の下で行われる大相撲の観客ですが、原則的に男性に限られていました。毎度のことのように判定をめぐって観客が乱闘騒ぎをおこすので、子どもや女性が見るには危険すぎたのです。当時の土俵の四方には刀をくくりつけた4本柱が立っていましたが、騒ぎが大きくなると、その刀で仲裁したというのですから、フィーバーぶりが想像できますね。

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 ◆町名の由来
 町の名の由来は、諸説紛々が常。絶対!とは言い切れませんが、有力と思われる町名の由来について、いくつかご紹介しましょう。
・青山――― 徳川家譜代の重臣、青山忠成の屋敷があったから。
・麻布――― 麻の茂る、あるいは荒れ野(浅茅生/あさじう)の広がる地の意味から。なお、麻布十番の「十番」は、江戸時代に行った古川の改修工事をした折、10番目の工区だったから。町名となったのは昭和37年。
・大手町―― 江戸城の大手門があったから。
・神田――― 伊勢神宮の神領で、神に供える稲を作る田があったから。
・紀尾井町― 紀州徳川家、尾張徳川家の各上屋敷と、井伊家中屋敷があり、それぞれの頭文字「紀」「尾」「井」を取った。江戸時代はここにある坂道の俗称で、町名となったのは明治時代。
・銀座――― 慶長17年(1612)に銀貨の鋳造所ができた。周囲に両替商が集まったことから、当時の町名は新両替町。町名となったのは明治2年。
・新橋――― 宝永年間に、この地を流れる汐溜川に新しい橋がかかったことから。橋の正式名は、芝口橋。
・築地――― 明暦の大火の瓦礫などで築(つ)き固められた埋立地だったから。
・佃島――― 摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から漁民が集団移住し、ふるさとの地名をつけた。移住に際し、大阪の住吉大社に分社してもらって、住吉神社を建てている。
・浜松町―― 元禄時代に名主だった人の出身地が、静岡県の浜松だったから。
・八重洲―― 着したオランダ船員、ヤン・ヨーステンが家康から屋敷を与えられて住んだ場所だから。ただし、当時の場所は東京駅の丸の内口側にあったが、1929年の町名変更で一時期、消滅。1954年に東京駅の東側に復活した。町名が引っ越しした珍しい例。
・有楽町―― 信長の弟、織田秀信(茶道に通じており、有楽斎と号した)の江戸屋敷があったから。

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 ◆通(つう)とは?
 「あの人は通(つう)だから」という言い方は、現代でもよく使われますね。たとえば、落語通、パソコン通……。
 この言葉が登場したのは18世紀後半で、「いき」という美意識にもとづく行動のあり方をいいました。反語は「不通」、「野暮」あたりでしょうか。知ったかぶりをする人には「半可通」という手厳しい言葉も生まれました。
 ともあれ、「通」になるのは大変で、その分野の表裏の事情をよく知っていることはもちろん、人格者で、機転が利き、いやみがなく……というのですから、人から「通人」と呼ばれるのはたいへんでした。
 のちには通の上を行く大通(だいつう)も出現。安永6年(1777)の『大通伝』など、通人のなかの通人とはいかなるものかを説く洒落本も出版されました。ただ、大通たちは湯水のようにお金を使いながら派手な衣装で遊里を闊歩、「いき」の精神からどんどんはずれていったため、のちには揶揄の対象となっていってしまいましたが。
 「いき」も「通」も自分からひけらかすようでは、その資格は無い、ということですね。

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 ◆天災と飢饉
 江戸の話というと、どうしても華やかでおもしろい話が中心になりがちですが、江戸時代もさまざまな天災が訪れて、人々を苦しめています。
 まずは、冷害と干ばつ。いずれも異常気象が農作物の不作をもたらす自然災害で、江戸はともかく、なけなしの米を年貢で奪われた農村地帯では飢饉となりました。大規模なものとして享保の大飢饉(1732)、天明の大飢饉(1782〜87)、天保の大飢饉(1833〜39)が知られています。なかでも天明の飢饉は天候不順が6年も続いた上、天明3年は浅間山の噴火による降灰も重なって、関東・東北・中部地方で20万人もの人々が亡くなりました。こうした被災民が、江戸の町にどっとなだれ込んだのです。
 台風の大雨や梅雨の長雨による水害は、毎年のように起きていました。地方はもとより、江戸も大雨が降ると、すぐ水浸しになりました。人の背丈以上もの出水で押しつぶされた家も多かったといいます。
 地震も起きています。江戸を襲ったものとしては、安政大地震(1855)が都市直下型。1万3000人以上がなくなりました。また、元禄地震(1703)は、江戸〜小田原で7500人もの死者を出したと推定されています。

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 ◆道路と橋
 江戸の道路網は、基本的に江戸城を守る軍事的な観点から造られていました。
 その特徴の一つが、日本橋界隈を中心とする町人地以外の道路に、屈曲やT字の交差が多いことです。これは全国各地の城下町にも多く見られる傾向ですが、江戸の場合は、江戸城の外堀や運河、神田川や隅田川など各所で道路が切断されるため、市中の交通網はかなりややこしかったといえます。
 また、幕府は江戸に権力を集中させるために、東海道などの五街道を、江戸の中心部から放射状に延びるよう整備しました。そして、交通の利便を図るために、街道の途中にある運河や川に橋を架けていきました。
 橋は、開府前に千住大橋、六郷橋がすでに整備されていましたが、1603年の開府と同じ年に日本橋が架けられ、万治3年(1660)には両国橋、元禄6年(1693)には新大橋、元禄9年(1696)には永代橋が造られました。なかでも日本橋は東海道と中山道の接点で、一里塚も日本橋を起点として一里ごとに設けられました。もちろん、こうした江戸時代の橋は、いうまでもなく木製。焼けては架けての繰り返しで、永代橋などは現在と違う場所に架かっていました。
 なお、江戸においては、道路は基本的に人が歩くためのもので、物資輸送のほとんどは船で行われていました。もちろん人々も、船をバスやタクシー替わりに使っていました。江戸の町に、川や運河はなくてはならないものだったのです。道路とともに川や運河の役割を見ることも、江戸の町を知る大きなポイントです。