最新情報 東都のれん会とは 各店のご案内 店舗所在略図 老舗の知恵袋 お問い合わせ リンク サイトマップ トップページへ

老舗の知恵袋

大江戸広辞苑

 ◆3代続けば、江戸っ子
 「江戸っ子」という言葉の初出は18世紀後半、いわゆる田沼時代です。よく「3代続けば江戸っ子」と言われていますが、こんな言葉があること自体が、当時、江戸に生まれ育った者が少なかった何よりの証拠といえるかもしれません。ちなみに、江戸後期の戯作者、西沢一鳳は、 「両親ともに江戸生まれの“真の江戸っ子”は1割しかいない。片親が田舎生まれの“斑(まだら)”が3割、両親ともに田舎出の“田舎っ子”が6割もいて、その連中が、おらぁ江戸っ子だと騒いでいる」 と書いています。
 江戸は、人々が流入・流動する町。つまり、先住者と新参者がせめぎ合う町でした。仕事を取り合う状況のもとで、以前から江戸に住んでいる者は「3代続いた江戸っ子」という言葉を、優先順位を主張する呪文として使い、情けない思いをした時のツッパリにもしたことでしょう。
 また、田沼時代は、江戸商人が大きく成長していった時代でもありました。それまで上方の商人たちに押しまくられていた江戸商人のなかから、江戸生まれ・江戸育ちの豪商が出て、町人文化を育てるだけの財力を持つようになってきたのです。そのことで、「江戸っ子」という言葉には、ブランドパワーも生まれました。
 しかし、3代続いていようが、財力があろうが、“いき”で“いなせ”でなければ「江戸っ子」とは言えない……。このあたりに、「江戸っ子」という言葉の真髄があるのです。

←戻る




 ◆庶民エリアは16%
 開府以前の江戸は、台地や海岸に沿ってわずかな村が点在する寂しい土地でした。江戸城の東はどこまでも続く潮入りの茅原で、日比谷や霞ヶ関、有楽町から日本橋にかけての一帯は前島とか外島(としま)と呼ばれていた洲。西側には、武蔵野の原野が広がっていました。
 入城した家康の仕事は、まず引き連れてきた家臣の住居地域を定めることでした。側近は麹町台地、中級クラスの家臣は麹町・番町・飯田町・神保町一帯、と、ほぼ現在の千代田区全域へ配置。そして、下級武士には四谷・牛込台地をあてがいました。
 続いて行ったのが、大規模な町づくり。江戸城に物資を運ぶ水路を掘り、町には掘割を造成。この工事で出た土砂と神田山を掘り崩した土砂で入り江や洲を埋め立て、日本橋から銀座にいたる一帯を造成したのです。さらに日本橋を起点に街道を整備して、江戸の中心街としました。天下普請と呼ばれたこの都市計画後も、江戸はさらに膨張していきます。
 ちなみに、文政1年(1818)、幕府は江戸市内いわゆる御府内(ごふない)の範囲についての公式見解を示しています。曰く「東は中川まで、西は神田上水まで、南は南品川宿を含む目黒川辺、北は荒川、石神井川下流まで」。
 ところで、この江戸エリアの70%弱は武家のためのものであり、14%は寺社の土地でした。つまり、人口の半分を占める50〜60万人の庶民は、全江戸の16%ほどの土地に押し込まれて暮らしていたのです。
 人口密度の高い、庶民の暮らす町――その生活については、「な」の項でお話しましょう。

←戻る




 ◆水道水で産湯
 「神田の水で産湯を使い…」「玉川の水で産湯を使い…」とは江戸っ子が啖呵(たんか)をきるときの決まり文句。この言葉、単に江戸を象徴する川の名として、神田川や玉川の名前を挙げていると思われがちですが、そうではありません。
 実は「神田の水」というのは、神田上水の水ということ。同じく玉川の水は、玉川上水。現在、JRに水道橋という駅がありますが、この「道」が、まさしく、その上水道です。江戸っ子は、川の水や井戸の水などではなく、水道水を使っていることを自慢しているわけで、そうした近代設備のない田舎者を見くだす文句として、この言葉を使ったのです。
 江戸はその多くが遠浅の海を埋め立てた土地だけに、水には苦労した土地柄で、人々は山の手の段丘に湧く湧水を売りに来る水売りの水を飲んでいました。けれど、それだけで日常生活が賄えるわけではないので、開府当初は赤坂の溜池の水が使われ、まもなく神田上水が、ついで玉川上水が引かれ、やがて上水が江戸市中の道路の下に網の目のように張り巡らされたのです。
 もっとも、この上水道の水、衛生学的には疑問がいっぱい。生温かく、雨が続くと濁り、ドジョウも泳いでいたといいますから、「神田の水で産湯」を使った赤ちゃんは災難だったかもしれませんね。

←戻る




 ◆世界最大の100万都市
 太田道灌が築いた城があったとはいうものの、開府までの江戸は、わずかな家並みがある程度の漁村でした。そこへどっと入ってきたのが諸藩の武家と、その生活需要を賄うための御用商人。すぐに職人たちが続き、まもなく、そうした人たちの生活を賄うための商人や職人たちが二重三重に集まってきました。
 江戸初期の寛永年間(1624〜44)の町方人口は、約15万人、それから約20年後の寛文年間(1661〜73)には約35万人になっていますから、猛烈なスピードで江戸が膨張していることがわかります。
 さらに100年後、享保18年(1733)の町民人口は53万人と記録されました。この数字に、約50万人の武士を加えると、なんと18世紀中頃の江戸には、すでに100万人以上の人々が暮らしていたことになります。
 当時、ヨーロッパ第一の都市だったロンドンが70万人に達せず、パリは50万人以下だったといいますから、江戸は18世紀最大の都市だったことになるのです。
 なお、その後の江戸の人口は、幕末から明治の動乱期には約50万人にまで激減しますが、正式に首都と決まってからは再び増加。明治22年(1889)の市制・町村制の施行によって江戸は東京市となり、人口は139万人(東京府は162.9万人)と発表されました。

←戻る




 ◆早朝開店の髪結床
 江戸時代の人々がマゲを結っていたのは、時代劇でもご存知のとおり。あの髪型をどこで整えていたかというと、髪結床(かみゆいどこ)です。天保年間(1830〜44)には、広場や橋のたもとなどに店を開く露店形式の店も含めると1100軒近くの髪結床があったといいます。髪結床は、早朝、まだ夜が明けきらないうちから店を開けました。一番風呂に入り、マゲを結ってもらってシャキッとしてから出かけたというのは、いかにも江戸っ子らしいですね。
 店は土間になっており、客は通りの方に向いて座りました。最初にまず月代(さかやき)をそり、次に髪をとき、顔を水でぬらして髭を剃ってもらったあと、マゲを結うという段取りでした。この間、順番を待つ客と話をしたり、道を通りがかった知り合いと話をしたり……。式亭三馬が『浮世床』で書いたように、髪結床は庶民の社交場でもあったのです。
 なお、忙しい大店(おおだな)などでは、髪結いの出張を頼んで、主人から番頭まで順番に結ってもらっていました。また、女性の髪結いも田沼時代(1770年頃)頃に誕生したようです。