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老舗の知恵袋

  江戸の歳時記

忠臣蔵 年表
元禄14年(1701)
2月4日 浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)、勅使饗応役(ちょくし きょうおうやく)を命ぜられる。
3月12日 勅使・院使、登城。将軍綱吉へ勅旨・院旨を伝える。将軍綱吉、饗応・能楽を催す。
3月14日 江戸城「松の廊下」で浅野長矩、吉良上野介義央(きら こうづけのすけ よしひさ)を斬りつける。浅野長矩は田村右京大夫邸へお預けとなり、夕刻切腹。夜、泉岳寺に葬られる。
3月15日 浅野大学長広、閉門。17・18日で鉄砲洲の上屋敷、赤坂の下屋敷を引き渡す
3月19日 夕方、第一の早使、赤穂へ到着。夜、浅野長広の書状をたずさえ、第二の早使が赤穂へ到着。
3月26日 吉良上野介、辞職。
3月27日〜
3月29日
大石内蔵助良雄(おおいし くらのすけ よしお)、藩士を赤穂城中に集め、評定。「吉良上野介には何の処分もないのに、城を明け渡す事はできない。納得できる処置を願う」という内容の受城目付宛の「欝憤之書付」を持たせ、多川九左衛門・月岡次右衛門を江戸へ派遣。
4月11日 大石内蔵助ら、切腹の連判をする(4月12日で29人、都合64人)。
4月15日 赤穂藩家中、赤穂城下を退去する。大石一家は尾崎村へ移る。
4月19日 赤穂城、明け渡し。
6月28日 大石内蔵助、京都・山科へ移り、隠栖。
9月2日 吉良邸、呉服橋から本所松坂町へ屋敷替え。
11月10日 大石内蔵助ら、江戸で急進派の義士たちと会合。仇討ちを仮に明年3月と決める。
元禄15年(1702)
1月14日 萱野三平、郷里の摂津萱野村で切腹。
4月 大石内蔵助、妻・りくを離別。
7月28日 丸山会議。7月18日に浅野長広、安芸浅野家にお預けの処分が下されて浅野家再興の望みが絶たれ、討入り決行を決議。
10月7日 大石内蔵助ら、江戸へ下向。26日、武蔵国平間村に到着。
まもなく、吉良邸の図面入手
11月5日 大石内蔵助、江戸石町に居を移す
12月14日 大石三平・大高源五から、14日に吉良邸で茶会が催され、吉良上野介の在邸が確実との情報が入り、15日早朝の討入りを決定。同志を本所の堀部安兵衛宅などへ集結させる。
12月15日 討入り。赤穂四十七士、吉良邸にて吉良上野介を討ち取る。
引き揚げの途中、2名が大目付・仙石伯耆守久尚に自訴。残りの44人は泉岳寺へ引き揚げ、浅野長矩墓前に吉良内蔵助の首級を手向ける。
12月16日 義士、細川越中守網利(熊本藩)へ17人、松平隠岐守定直(伊予松山藩)へ10人、毛利甲斐守網元(長府藩)10人、水野監物忠之(岡崎藩)へ9人、それぞれお預け。
元禄16年(1703)
2月4日 義士、お預け先4藩の江戸屋敷で切腹。吉良義周は知行地を没収され、諏訪安芸守忠虎(諏訪藩)へお預けを命ぜられる。大石らの遺児19人は遠島。
2月11日 吉良義周、江戸から諏訪の高島城へ護送される。宝永3年(1706)死去。
宝永6年(1709)
7月18日 浅野長広、広島藩差し置き赦免、帰府。翌年、安房国に500石を与えられ寄合旗本となる。
この月、六代将軍家宣の大赦により、義士の子ら赦免。
寛延1年(1748)
8月14日 浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大坂竹本座で上演される。