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昭和39年(1964)第18回夏季オリンピック・・
昭和39年(1964)第18回夏季オリンピック 東京オリンピックの思い出
オリンピック
<細田 安兵衛(榮太樓總本鋪相談役、東都のれん会会長)>
昭和39年(1964)第18回夏季オリンピック 東京オリンピックの思い出
みよちゃん 2020年のオリンピックの開催地が「東京」に決まりました。そこで、今、昭和39年(1964)に開催された東京オリンピックの思い出を皆さんに伺っているところです。よろしくお願いいたします。 早速ですが、当時も、開催が決まったときは日本中が大騒ぎ、という感じでしたか?
(細田) いや、そんな覚えは全くないなあ。少なくとも、今回みたいに「7年後が楽しみです」なんて言うようなやつは、誰もいなかったと思うよ。
みよちゃん (笑)。でも、当時、東京オリンピックが決まった後は、ともかくものすごい勢いでインフラの整備や競技場造りなどが始まったんですよね。
(細田) 敗戦から10年。日本が右肩上がりの経済成長を始めていたところに、オリンピックで拍車がかかった。国立競技場や日本武道館、駒沢オリンピック公園といったスポーツ施設が建設されたし、高層の高級ホテルがばんばん建てられた。
一方で、新幹線やモノレール、首都高速道路などのインフラが、オリンピックをゴールに決めて造られていった。
みよちゃん はい。そして昭和39年10月10日から14日間にわたって東京でオリンピックが開催されたわけですが、細田さんは、実際にご覧になっているのですか?
(細田) 開会式は見たよ。完成したばかりの国立競技場に、東都のれん会の仲間10人くらいで行ったかな。たしか神田川本店の先代がスポーツマンで、大学時代は100メートル走の選手、卒業後も陸連の仕事をずいぶん手伝っていて、オリンピックの時はスターターもすることになったとかで、そのご縁でチケットが手に入った。

開会式が始まると、オリンピック・マーチが演奏されて選手団が入場して、聖火が灯されて、最後はブルーインパルスが五輪マークを空に描いてね……。
でも、そうしたことは覚えているけれど、最近のオリンピックのようにショーアップされているわけじゃないから、感動的な思い出というよりは、整然とした立派な式を見た、という感じだったかな。
みよちゃん 日本で行われる世紀の祭典を見守る、という感じだったのでしょうか。
競技は何かご覧になりましたか?
(細田) いや、ほとんどテレビで見ただだけど、唯一、マラソンは見たよ。
当時、うちは菓子の製造工場が甲州街道沿いの調布市仙川にあったんだけど、ちょうどその前がマラソンコースになるっていうんで仮設のスタンド造ったりしてね。何といってもすごい人気だったのがアベベ、それから円谷。応援の練習もするか、なんて言いながら、楽しみにして待ったね。

それで、当日、工場は半休として、「さあ応援だ」と待ち構えていたら、向こうの方からアベベが走ってきて、みるみる近づいて、あっという間もなく目の前を通り過ぎて行っちゃって……(笑)。
みよちゃん 想像以上に速かった…?!(笑)
(細田) そう。マラソンコースは、その先の府中で折り返すんで、また帰ってきてくれたからもう一度、見られてよかったんだけど(笑)。
 いや、オリンピックというのは特別な人、特殊な才能の人が出るものなんだということを実感したなぁ。
 それと、当時は、みんなあんまりスポーツを知らないから、陸上競技にしたって、球技にしたって、ほとんどルールもわからない。だから、テレビでオリンピックを見ているうちに、そのスポーツを認知した、という感じだったと思う。
 ボクシング、ウエイトリフティング、レスリング、柔道、体操、バレーボール……。本格的な試合を初めてきちんと見て、日本選手が勝つと、次も見る。そうやって優勝決定戦まで見ているうちに、ルールを覚えて、その面白さもわかっていって……。
みよちゃん そんな時代だったのですね。バレーボールなどは東京オリンピックで日本が金メダルをとった後、『アタックNo.1』『サインはV』といった漫画も大ヒットしてバレーボールブームが起きたんですよね。
1964年の東京オリンピックって、いろいろな意味で日本を急速に変え、日本人の意識を大きく変えていったイベントだったんですね。
(細田) それは、間違いない。
みよちゃん ところで、オリンピックの負の置き土産が、日本橋の上に架ってしまった高速道路。日本の原点のような名橋が、大きく美観を損なってしまったわけですが、これに関して地元で大きな反対運動が起きるというようなことなかったのですか?
(細田) なかった。なぜって、高速道路なんて誰も見たことがないんだから、反対もなにもない。それどころか、「高速が架かると、羽田から15分で日本橋に着いちゃうんだってさ」「それはすごいな」「かっこいいぞ、未来都市だな」なんて、気楽な話をしてた。それに、「お国がやることに反対したら、みっともない」というのが当時の空気だった。
 もちろん工事が進む様子は毎日見ていたけど、遠くの方からだんだんと高架橋が延びてきて、右からも左からも延びてきて、最後は一晩で日本橋の上に架けちゃった。
 朝、起きたら、日本橋の上に高速道路が架っているんで、びっくりしたよ。「なんだこりゃ」「ひどいねえ」なんて。
みよちゃん 日本橋の上に高速が通ると、どんな景色になるのか。それが想像できなかった……。
(細田) 当時はそうだったんだ。
それで、橋ができて5年後に【名橋「日本橋」保存会】を作った。天下の名橋であり、日本の道路の原点でもあるこの橋の威風と美観を取り戻そうという活動です。具体的には高架高速道路を地下に移設するなどして、日本橋をよみがえらせようというもので、HPもあるので見てほしい。
 ただ、最近、考え方がちょっと変わってきたんだ。首都高を地下に通して……というような考え方ではなく、そもそも都会の真ん中に高速道路はいらないんじゃないか、と。
みよちゃん ものすごい発想の転換ですね。
(細田) この街に、高速道路は本当に必要なのか。むしろ、水運に着目したほうがいいんじゃないか。水運は平時も美しく、役にたつし、何よりも大きな災害が起きた時、救急の道になるし、救援の道になるし、復興時には瓦礫を運ぶ道にもなる。
みよちゃん 都市のあり方も、人の暮らし方も変わってきている上に、防災の観点も必要。そういうものも見据えて、街を考えていく、ということですね。
 今、日本橋では大きな再開発プロジェクトがあちこちで進んでいますが、2020年の東京オリンピック開催の時、東京は、日本橋はどういう街になっているのでしょうか。
(細田) 僕は古くて新しい、粋な大人の街になってほしいと思っている。「大人の街」というのは年齢ではなく、行儀のいい、教養のある、身だしなみのいい人たちが集まる街、という意味だ。そういう日本橋、そういう東京になれば、地方の模範になる。世界の都市のモデルケースになる。2020年の東京オリンピックが、そのきっかけになればいいと思っています。

☆文:太田美代